粒や木(ツイッター)

ex-藤子文庫(モトフジ)の呟きです

藤子文庫の高倉健

十一月十日は俳優・高倉健の命日です。

一年前、高倉健の訃報を聞いた時は、突然のことでとても驚いたのですが、遺作になった「あなたへ」の撮影時に異例のNHK密着取材を許可していたりしていて、なんとなく最期を意識していたのかもしれないな、と妙に納得したものでした。

 

そんな高倉健の、以前から欲しいと思っていた写真集を先日とある古本市でみつけ、少し高かったのですが思い切って買ってしまいました。それがこの「憂魂、高倉健」です。

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この写真集はまるで子供の成長記録のように、赤ん坊の頃の写真から時間軸に沿って写真が掲載されていくのですが、それを見ていくと、まるで小田剛(高倉健の本名)という人が、高倉健といういわば架空の人格にいつのまにか乗っ取られてしまっているような、そんな風にも見えてきます。

実際はそこまでホラー調の話でもないのでしょうが、一人歩きしだした高倉健というイメージを生涯をかけて演じ切ったのが、俳優・高倉健の真骨頂ではなかったのかと思うのです。

そしてこの写真集は、実際に交友関係にあった横尾忠則が、ファンの目線と、本人を良く知る友人としての、両方の目線から”高倉健”というイメージの虚と実を、すごく巧みに表していて、かなり前に図書館で見つけた時から、いつか手に入れたいと思っていた1冊だったのです。

私がなぜそんなに高倉健の実像にこだわるのかというと、実は高倉健に本当に興味を持ったのは、映画ではなく最初のエッセイ集「あなたに褒められたくて」を読んだ事がきっかけだったからです。

このエッセイはほとんどが書き起こしのようで、健さんが喋っているをじっと聞いているような文章になっています。それはなんだか、親戚の伯父さん、またはおじいさんの思い出ばなしを聞いているような感じで、しかもそのエピソードがやたらとおもしろいのです。

わりと寂しい感じの感傷的なエッセイ(中にはそのようなものもあるのですが)をイメージしていたので、この本をはじめて読んだ時は衝撃的でした。

俳優としての高倉健もそれなりに好きだったのですが、ちょっと堅物すぎてピンと来なかった人間離れした部分が、それ以来どの映画を観ても感情移入しやすく人としてみれるようになった、大げさに言うとそんな感じです。

テレビのトークなどにほとんど出なかったのは、そのせいではないかとおもうのですが、高倉健は、実は結構お喋りなのだそうで、孤独で寡黙で無器用。そんなイメージがテレビに映ると壊れてしまう。そんなことを気にしてたのかな、なんて考えるとよけいに面白くなってしまいます。

これは、ちょっと意地の悪い見方なのかもしれないのですが、本当はあまり見せたくない地の部分がチラッと垣間みれた瞬間、余計にそこに作り上げられたものが引き立つ。そういう感じです。

その後、他にも何冊か本を出していますが、そこでは少し渋いトーンに戻っていて、最初のエッセイで地を出しすぎてしまったと反省したのではないかな、なんて邪推したりしています。

「憂魂、高倉健」は自分のために買ったつもりだったのですが、今回販売することにしました。もともと結構な値段でしたのでちょっと高いのですが。

最近は、たくさんの本に囲まれていて、なんだか本を所有することの意味がわからなくなってきています。それは、こんな商売ならではの感覚だとおもうのですが。

そして、ずっとこの商売を続けていれば、きっとまたこの本とも出会えるのじゃないかと、そんな風に思うのです。そのときはまた、少しの間自分のものにして楽しもう。今はそんな気持ちです。

この仕事の宿命なのかもしれませんね。

 と、今回は高倉健エッセイ風で終わりにしたいとおもいます。

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