粒や木(ツイッター)

ex-藤子文庫(モトフジ)の呟きです

ひもの道の、ちょっと寄り道

 長く暑い夏が終わり、風がひんやりとした空気を運んで来るようになると干物づくりの季節の到来だ。なんていうと昔のドキュメンタリー番組みたいですが、実は夏の間もずっと干物作りは続けていました。もちろん外で干すと乾く前に傷んでしまうので、冷蔵庫の中で乾燥させるのですが、それで問題なく干物は出来あがります。それでもやはり寒風に晒されたり、日光を目一杯浴びた干物の方が美味しくなりそうな気がするのは、ちょっとした信仰みたいなものかも知れません。でも信仰って非科学的なことかもしれませんが、科学で説明出来ていないコトも現実的にまだまだ沢山あるように思うのです。そのくせ現代人というのは少し科学的な思考に偏り過ぎているような気がするんですよね。なので最近私は”なるべく科学的でない目で世界を見たい”と考えたりしています。まあちょっと頭がおかしいのかもしれませんけど。

 話を干物に戻しますと、そんなふうに夏場もずっと干物作りは続けていたのですが、その延長で大根を干して沢庵漬けを作ったりもするようになりました。何でもかんでも干せばよいというものでもない気もしますけど。それで実は最近そのまた延長線上で”干し”に関する新たな発見があったのでご報告します。

 これは食べ物と全く無関係というわけでは無いのですが、見方によっては全く真逆に位置する生ごみに関する話題です。実は最近”コンポスト”というモノを知り、なんとか自分でも出来ないものかとネットで少し調べてみたのでした。ご存知ない方のために説明しますと、コンポストとは(compost=堆肥)という意味で、生ごみを乾燥させて肥料にするための”方法”やその”器具”の名称です。ですが一般的には、生ごみを肥料にすることでゴミを焼却する際の環境負荷を減らし、同時に肥料を家庭菜園などに使えるという、家庭で取り組める環境保護活動という意味で使われているようです。

 この取り組みは海外では結構前から普及しているようで、日本でも自治体によっては購入の補助金が出たりと、少しずつ広まりつつあるみたいです。といっても、全く別なところで何度かこの話題に触れることがあったり、身近な知人二人がやっていることを知ってちょっと驚いた、という程度の広まりなのですが。

 そんなわけで、これは自分もやってみたいな、と思って調べてみたのですが、電気的な方式を使う器具は価格が十万円近くもする上に電力がかかったり、高価な活性炭フィルターを定期的に交換する必要があったりして、とても気安く導入できるものではありませんでした。最もシンプルな、容器に生ごみと促進剤を一緒に混ぜるだけという方式は、そんなにコストはかからないのですが、そこから発生する堆肥をどうするのか?という問題が残ることが判明しました。(電気式の器具はゴミを乾燥させるだけなのでそのまま可燃ごみに捨てられる)以前少しだけプランターで韮(にら)や大葉を育てたこともあるのですが、その時の経験から、土を捨てるというのは結構面倒だった覚えがあるので、日常的に堆肥をゴミとして捨てるというのはかなり大変で手間が掛かるだろうと想像出来たのです。

 これはどこか庭付きの部屋にでも引っ越して、家庭菜園を始める時まで無理かなあと諦めかけていたのですが、その時ふと干物作りで冷蔵庫を使っていることを思い出したというわけです。

 ここまで読んで、えっ!と思われた方もいるかも知れませんが、お察しの通りで、その時私は、生ごみを冷蔵庫で乾燥させるということを思い付いたわけです。

 正直いって私も、衛生的にどうかなとは少し思ったのですが、実際やってみると純粋な生ごみというのは、バナナの皮とかジャガイモの皮とかそれほど大した量でもなく、そもそもゴミとはいえ元々冷蔵庫に保管していた物の破片なので、きちんと管理すれば、腐るわけでも虫が湧くわけでもなくキレイに干からびてしまうのでした。

お見苦しい写真ですみません

 やってみてわかったのですが、流しの三角コーナーに溜めていた生ごみというのは結構水分を吸っているようで、生ごみだけより分けて乾燥するだけで全体のゴミの量を半分かそれ以下まで減らすことができました。具体的な数字としては、我が家の家計においてゴミ袋代が半分くらいに節約できたというところでしょうか。

 それで環境負荷をどれだけ減らせられるの?と問われても何もいうことはできません。それって斎藤幸平が『人新生の「資本論」』で言ってるグリーン・ウォッシュちゃうん?といわれたらそうかもしれないとうな垂れるしかありません。でも。それでも。昔から「ローマは一日にしてならず」といわれていますから...。

芸術を巡るささやかな冒険

第8回横浜トリエンナーレ/野草:いま、ここで生きている

この春(2024年)、日本で開催される芸術祭としては最も古いものの一つ「第8回横浜トリエンナーレ/野草:いま、ここで生きている」が四年ぶりに開催された。メイン会場の横浜美術館もしばらく改修工事で閉館していたので、会場のある”みなとみらい”へ行くのも随分久しぶりだったような気がする。あらためて考えてみると、芸術祭ってなんだろう?そう思って恐る恐る訪れた最初の芸術祭がこの横浜トリエンナーレだった。それが第何回だったのかはまるで覚えていないのだけれど、おそらく二千年代半ばから後半にかけてだったと思う。それ以来なんとなく日本各地の芸術祭を巡るようになり、気がつくといつの間にか、それが私のささやかな楽しみの一つになっていた。でも、自分でも意識しないうちに繰り返しているコトって、やっぱり何かが自分に合っているんだと思う。自分では結構気に入っていたつもりでも、いつの間にかやらなくなってしまっているコトも多い。

今回の横浜トリエンナーレは第8回ということで、その数字だけを見るとそれほど歴史あるイベントといった感じもしないけれども、最初に開催されたのが2001年で今年で二十四年目(トリエンナーレとはイタリア語で三年に一度の意味)。既に四半世紀続いている。01年アメリ同時多発テロ、11年東日本大震災、そして20年からコロナ禍と、21世紀の激動といってもよい歴史とともに歩んできたのかと思うと、それなりの感慨も湧いてくる。今回の横浜トリエンナーレのタイトル「野草:いま、ここで生きている」もそういう困難な時代、状況を生きることを率直にテーマにしたものだった。

今回の横浜トリエンナーレは会場が広いエリアに点在していた事や、横浜という比較的通いやすい場所での開催ということもあって、パスポートチケットを買って何回かに分けて会場を巡ることに決めた。それで気持ちにも余裕があったので、気になった作品を繰り返し眺めたり、映像作品も時間をそれほど気にすることなく見ることができたのは本当に良かった。ちょっと贅沢な気がしなくもなかったが、地方の芸術祭ではまずこういうことはできないので、三年に一度の贅沢ということにした。

最初にメイン会場の横浜美術館を回ってとくに印象に残ったのは、戦前から戦後にかけて日本に住んでいた中国人の間に広がった版画運動の記録だった。彼らは異国にあって言葉が不自由であったために、版画つまり絵によって自分を表現する手段を手に入れる必要があった、というような説明だったとおもう。絵でなくて版画であったのは、複製して多くの人に見てもらえるという利便性と、デッサンみたいな技術力がなくてもそれなりの形になるという簡便さがあったからだ。それはそれで確かに面白いし、版画という表現のユニークさにも改めて気付かされたのだが、それにしても地味だなあ、というのが正直な感想だった。芸術祭とえば草間彌生の作品がドーンと展示されている、といったようなド派手な印象が少なからずあって、自分のなかでもどこかでそういう期待をしていたのだとおもう。

それから三、四回横浜へ通い、何度目かに、メインの”みなとみらい”からは少し離れた、黄金町というやや猥雑な繁華街近くに設けられたエリアに出掛けた。その一帯は小さな家が寄せ集まって路地を形成しているような不思議な街並みで、その小さな家一軒が丸ごと作品になっているような展示があったりと、それまでの会場とはどうも雰囲気が違っている。一体ここはどういう場所なんだろう?と気になって解説を詳しく読むと、そこはかつては売春街で、売春宿として使われていた建物を再利用し、現在はアーティストにアトリエや展示スペースとしてに開放する取り組みが行われている、ということだった。なるほどなと思って展示の目印のある家を一軒一軒巡っていると、ある一つの映像作品が目に止まった。

画面は白黒で場所はまさに展示会場のあるその街。時間は夜だ。そこに、かつてそうであったのだろうか、それともやや劇画的に誇張されているのだろうか、娼婦やポン引き風の男たちがたむろしている姿をカメラが捉える。すると彼女ら彼らはことごとくカメラ、つまりよそ者であり鑑賞者であるこちら側を鋭く睨みつけるのである。解説によれば、その映像は黒澤明の映画「天国と地獄」からインスピレーションを受けた作品ということだった。黄金町にあったその街は「天国と地獄」で描かれた貧民窟の舞台として設定されていた場所だったのだが、当時は状況が悪過ぎて実際には映画のロケが出来なかったという逸話が残っているらしい。映画「天国と地獄」を観たことのある人ならすぐにピンと来ると思うが、映画のなかで地獄側の場所として設定されていたのがそのエリアだったのだ。そう考えてみると、メイン会場となっている”みなとみらい”が天国側という皮肉にも思えなくはない。いずれにしても、その場所でその作品に出会ったことで「野草:いま、ここで生きている」というこの芸術祭のタイトルの意味が、なんだか霧が晴れるみたいに私の中でクリアになっていったのである。

実際に地べたに這いつくばうようにして生きているということとは別に、いろんな状況の中でそれぞれ生きている”みんな”がそれぞれの”野草”なのだ。私達の世界はいろんな草花が混じり合って生えている草むらそのものなのだ。そんな中、いま、作品に触れているまさにいま、生きている。そのことを確認するのが、アートに触れることの意味そのものなのだ。上手く言葉にするのが難しいのだが、なんだかそんなふうに声をかけられたような気がした。そしてその声を聞いた後、ふたたび名もなき中国人の版画や、その他”地味”に展示されていた作品の前に立ったとき、それはもう作品というよりも作者の分身としか思えず、自分がなぜそのような作品を観るためにわざわざ出掛ける気になるのか、その理由がすこし判ったような気がした。

「第8回横浜トリエンナーレ/野草:いま、ここで生きている」という芸術祭は、21世紀という困難な時代を生きる一本の野草として「俺達もがんばってるから、君も負けるなよ」とそんなふうに私を励ましてくれるような、そんな芸術祭だった。

なにも爆発だけが芸術じゃないんだな、岡本太郎にケンカを売る気などさらさら無いが、なんだかそんなことを思った。

ひもの道 第三回「沢庵漬け」

実をいいますと、沢庵作りは魚の干物を作り始めるよりも前から始めていたのですが、干物用に買ったネットが大根を天日干しするのに使えることに気がつき、この「ひもの道」でもとりあげることにしました。ひもの道は意外と道幅が広いのかもしれません。

沢庵は大根を沢庵液に漬ける前工程として、大根がふにゃふにゃになるまで天日干しをします。保存用に乾燥させ、同時に旨味も凝縮させるという発想は魚の干物と同じなんでしょう。考えてみれば梅干しなんかも同じで”干す”というのは昔からある調理法のひとつなんだな、と改めて思ったりもします。

繰り返しになりますが、実をいいますと、沢庵作りのはるか前から私は梅干しも漬けているのですが、これまでは最後に天日干しする工程がネックになっていて、干す工程を省いた梅漬けで我慢していました。でも今年からはこのネットを使って本物の梅干しを作ることが出来るのだ。そう思い至った時には、なんだか長い国境のトンネルを抜けたような気持ちになりましたよ、マジで。

それで沢庵なのですが、それまでは柵(さく)にカットした大根を冷蔵庫で乾燥させていたところを、まだ寒さの残る三月末に、ネットに入る程度の小型の大根一本をまるまる干すことに挑戦してみました。

自宅のベランダの日当たりの関係上、私の干物は、魚の場合でも寒い時期の夜風に晒すというのが基本で、少し気温が上がってくるとその代用に冷蔵庫での乾燥がメインになります。(この文章を書いている5月下旬ではすでに完全に冷蔵庫乾燥に移行しています)今回の沢庵も最初の二、三日夜風で干した後は冷蔵庫乾燥に切り替えました。その後一週間ほどでしょうか、程々に乾燥した大根を袋状のジップロックに入れ、酢と砂糖と色付けのウコンを合わせた沢庵液に漬け少し重しをして放置。そんな具合で大根のミイラのような沢庵漬けが完成しました。

皮をむかなかったせいか、ウコンの色が表面にしか着いていないのは御愛嬌ですが、ちょっと思い出したことが合って、わざと沢庵を厚切りにしてみました。ボリボリと音を立てて厚切りの沢庵を齧ると、ほんのりと辛味の残った沢庵液の染みた大根の味が”歯ごたえ”と共にアゴから脳へダイレクトに伝わり、沢庵という食べ物は、間違いなくその”歯ごたえ”と”音”も味の一部なんだということを実感しました。

沢庵漬け

そのちょっと思い出したこと、というのはちょうど一年ほど前に観た一本の映画でした。作家水上勉の山での暮らしを描いたエッセイを、沢田研二主演で映画化した「土を喰らう十二ヶ月」。劇中の料理を料理研究家土井善晴が担当したことでも話題になっていました。この土井善晴という人の料理に対する考え方は”素材を活かす”コトをどこまでも突き詰めるといったようなものだと思うのですが、この映画にも随所にそのような料理が登場していました。そのなかでも印象的だったのが、主人公が近所のおばさんから振る舞われた厚切りの沢庵で、画面で見た感じでも一センチかそれ以上のあるような厚さの沢庵をボリボリ齧る様子がなんとも美味しそうだったのです。

私が沢庵漬けを作ってみようと思ったのがその映画が切っ掛けだったかどうかはよく覚えていないのですが、土井善晴がその画面から何を伝えたかったのかは、実際に作った沢庵を齧ってみて、少し分ったような気がしました。

それは、沢庵は厚切りに限るということです。

tsuchiwokurau12.jp

村上春樹ライブラリー「変身するカフカ展」

ブログをチェックすると、前回の村上春樹ライブラリー(以下、ライブラリー)に関する”つぶやき”がちょうど一ヶ月くらい前なので、その一ヶ月の間に私は二回もこのライブラリーを訪れたのか、と我ながらちょっと呆れてしまいました。決して暇を持て余したりしてる訳でもないのですが。

前回の最後に少し触れましたが、高田馬場には早稲田松竹という古い名画座(映画館)があって、そこには本当によく通っています。今回も台湾の名匠エドワード・ヤンの特集を観るために高田馬場へ出たので、そのついでに足を延ばしたという訳です。映画館からライブラリーまで、だいたい徒歩十五分くらいでしょうか。

前回ライブラリーを訪れた際は展示替えの最中だったのですが、今回は新しい展示企画『「変身」するカフカ』が始まっていました。村上春樹カフカといえば「海辺のカフカ」という作品のタイトルが思い浮かびますが、正直に言えば私はこれまで、なぜ主人公の少年の名がカフカなのかよく解っていなかった、というか殆ど気にしたこともありませんでした。多分「なんでだろう?」と少しくらいは考えたと思うのですが、小説に引き込まれるうちにそんな疑問はすっかりどこかに吹き飛んでしまっていたのだと思います。

その謎が展示の中であっさりと明かされていて、なるほどなと納得したのですが多分割と知られた話なのでしょうね。ですが私にとっては大発見で、カフカという作家が、村上春樹の作品を読む上でとても重要なキーワードであるという気づきを得ることができました。

それは簡単にいえば、村上作品の(個人的には短編にその傾向をより強く感じるのですが)なんともいえない余韻、不確かさ、変な感じ、場合によっては欺かれたようにさえ感じる結末、そういったあの特別な雰囲気は、カフカからの影響を村上流に味付けしたものと考えると、凄く腑に落ちたといったところでしょうか。例えば、深夜に耐え難い空腹を感じマクドナルドを襲撃する、といったような奇妙な話の出発点はそこにあったのか、とか。訳の判らなさの理由が判った。ちょっとそんな感じがしました。

私としてはその発見だけでも充分だったのですが、その本家といってもよいカフカの魅力を再認識できたり、最新の研究による、これまで知られいたものとは少し違ったカフカ像を識ることが出来たりと、例によって規模の小さな展示でしたが、そこから得られたものは大きかったです。もっとゆっくりしたかったのですが、映画の上映時間もあったので、展示を見た後は併設された橙子猫というカフェでドーナツとコーヒーを飲んで帰りました。それは私にとって神社にお賽銭を投げるに等しい行為として。

最後にもうひとつ。このライブラリーには出入り口が三箇所あるのですが、敷地が坂になっているので一階から入ったのにニ゙階から出てまた一階に戻るといったような少し不思議な空間になっています。もともとある建物を改装したらしいので決して意図したものではないと思うのですが、その迷宮のような造りがまさに村上春樹の小説世界そのもののようにも感じられ、つくづくよく出来ているなあと感心した次第です。

変身するカフカ

村上春樹ライブラリー「安西水丸展 村上春樹との仕事から」

2021年にオープンして以来ずっと行ってみたいと思っていた、早稲田大学国際文学館 通称・村上春樹ライブラリーへ、先日ようやく行ってきました。展示企画の「安西水丸展 村上春樹との仕事から」を観るためです。安西水丸というと初期村上作品の挿絵や表紙が有名ですが、当時を知る私としては、何かの雑誌を開くと必ずと言っていい程どこかにそのイラストが使われていた、超売れっ子で多作のイラストレーターという印象です。それで、多分見飽きていたという事もあったと思うのですが、いわゆるヘタウマな画風も当時の流行りくらいにしか思っていませんでした。

画家の日比野克彦イラストレーターの湯村輝彦、漫画家の蛭子能収しりあがり寿など、同時代に出てきたアーティストにはなぜかヘタウマな画風のヒトが多かったような気がします。今から考えると、バブルという過剰な時代に対する”違和感”みたいなものがその背景にはあったのかも、なんて思ったりもしますが、安西水丸もそういう流れのなかのいち作家という印象で、とくにそれ以上に特別なものを感じた事はありませんでした。ですが、なんとなく懐かしさもあって二、三年前に世田谷文学館で開催された回顧展を観に行ったところ、その線と余白の絶妙さ加減みたいなものに魅せられ、それ以来すっかりその魅力に取り憑かれてしまったという訳なのです。

なぜか最近はこういうパターンが多くて、ミュージシャンの細野晴臣も他のYMOのメンバーに比べていまいちその良さが判らなかったのが、やっぱり二、三年前に最新のアメリカツアーのライブ映画を観て、以来すっかりはまってしまったなんてことがありました。小学生の頃から知っていたのに。実は私の村上春樹好きも結構そのパターンで、高校生から二十代半ばにかけては好きだったのですが、ある時期からすっかり読まなくなっていました。「ねじまき鳥クロニクル」くらいの話です。それが五、六年前でしょうか、ふと思い立って読み始めて以来すっかり夢中になってしまい、こんな風にミーハーに村上春樹ライブラリーへ行ったり、毎月「村上RADIO」を録音して繰り返し聴いたりするほどになってしまっています。

歳のせいで懐古的になっているのかなとも思うのですが、より強く刺激的なものを求めていた若さから、作品やアーティストから本質的に響いてくるようなモノにより強く惹かれるように、心と身体(からだ)が変化したのかなという気もしています。

それが”老い”だと言ってしまえばそれまでですが、だとすれば”老いる”というコトは、ただ単に衰えるというコトではないと実感しているのかもしれません。村上春樹ライブラリーでの安西水丸展は小規模でしたが、その分一枚一枚の絵をじっくり観ることが出来ました。何回か足を運んでもいいかなというくらいでしたが(なんと入場無料)実はこの展示会の期間を勘違いしていて、会期が残り二週間というところでの滑り込みだったのがなんとも残念です。

ただ嬉しい発見だったのは村上春樹ライブラリーの充実ぶりで、ライブラリーという名の通り本当に図書館になっていたのには少し驚きました。村上春樹の著作や関連書籍以外にも幅広く選書されていて、併設されているカフェなどで読むことが出来て……

あまり詳しくは書きませんが、私はよく早稲田松竹という名画座に映画を観に行くので、これからはそのついでにコーヒーでも飲みに足を伸ばすのもいいかななんて思っています。

 

ひもの道 第二回「食材としての干物」

干物作りを始めたものの、思ったように魚が手に入らないという悩みを抱えていました。いわゆる”開き”になりそうで日常的に手に入りやすい魚はイワシとアジくらいで、どうもそればかりでは芸がないなあと思っていたわけです。

以前にそんな悩みの解決方法として、ブリの切り身やカマを使っての干物作りを試しているといったご報告をしましたが、イワシやアジの干物でも、それを使った料理のレパートリーを増やすとよいかもしれない、そんなことを思いつきさっそく検索してみました。こういう思いつきにネットの検索というのは本当にマッチしていると思います。

まずは洋風に丸干しイワシとニンニクのオリーブオイル焼き。ポテサラと人参のグラッセの付け合わせで精一杯洋風を演出してみたつもりです。これまではグリルで焼いて醤油を少々の一択だったので、これだけでもちょっと別の魚かなと思うくらいでした。

お次は、以前にも少し紹介しましたが、イワシのほぐし身のペペロンチーノ。イワシはアンチョビのイメージで、春キャベツと合わせてみました。普段はツナ缶なんかを使うところですが、むしろツナ缶より味わいが濃厚です。トマトソースでも絶対間違いないでしょう。絶対は絶対に無いとよく言いますが、この場合はそう言い切っても良いような気がします。

その他にもいろいろとありましたが、鰯は油と相性がよいようで、オイルサーディン風にしたり、フライにしたりといったものが目立ってました。そういえば、西荻窪の戎(えびす)という居酒屋に「いわしコロッケ」という名物メニューもあったなあ。

まだ試してませんが、アジの開きには混ぜ寿司のレシピを押さえてます。こうなってくると干物作りもなんだか忙しくなりそうです。

「阿賀に生きる」というドキュメンタリー映画

阿賀に生きる」という三十年前に撮られたドキュメンタリー映画を観る機会がありました。上映を企画したのは国立市で月に一度上映会を企画している国立映画館というグループです。https://x.com/kunitachieiga/status/1765145024927531153?s=20

そもそもfacebookでこのグループの活動を知ったことがきっかけで、大した予備知識もなく観に行ったのですが、これが大変な映画だったのでご報告します。

前情報として知っていたのは、この映画が水俣病新潟水俣病)の問題を扱った内容であるという事、そして海外などでも高い評価を受けた作品であるという事くらいでした。なのでおそらくは、病に苦しんでいる人たちの姿や、裁判などの闘争を記録した映画なのだろうと思っていたのですが、驚くほど見事にその予想は裏切られました。

もちろん裁判などの話題も出てくるのですが、上映時間の殆を占めていたのは阿賀野川のほとりで自然に寄り添って暮らす、三つの家庭の淡々とした営みだったのです。

囲炉裏を囲んで昔話をしたり、小さすぎて機械の入らない田んぼの稲を鎌で刈ったり、臼と杵で餅をついてお酒と交換したり。主な登場人物は皆七十を過ぎた老夫婦なのですが、それが三十年前の日本だとは、私にはちょっと信じられないような暮らしぶりでした。

改めて考えてみれば画面に登場した人々はみな水俣病の患者だったはずなのですが、令和の東京に住む私が近所で見かける老人たちに比べて、よっぽど明るく健康的にさえ見えたのです。

これは一体何なんだ。もしユートピアが存在するならばこのような世界なのではないだろうか。私は映画を観ている間ずっとそんなことを考えていました。多分、ぽかんと口を開けながら。

そういえば、熊本の水俣病患者と向き合った石牟礼道子の「苦海浄土」にも、なんだかそこに不思議な幸福感がるような気がしたことを思い出しました。天国と地獄。この世とあの世。しあわせとふしあわせ。それは人間が考えてすんなり理解できるような単純なモノじゃないのかもしれない。

阿賀に生きる」という映画は、そんなことを思わせる映画でした。

eiga.com